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■大斎原の神々
山岳重畳とした幽邃の地、熊野は、神武東征やイザナミノミコトの葬送伝承が語られたり、また、壮烈な捨身、火定(焼身),補陀落渡海の風習をとどめているように、古くから、死と転生、超現実(まぼろし)、幽と現実(うつしみ)明との交錯する幽冥界と見なされてきた。
のちに熊野山は、俗に熊野三山とも熊野三所権現とも称されるように、本宮、新宮、那智の三社鼎立する信仰形態をもつようになった。が、もとは、それぞれ別箇の信仰体を持ち、山、川、滝などに宿る神秘性や霊威に神性の発現を感じ、それを土着の地主の神として祭り鎮めていたようである。
その民族的な神々が、発生の基層から昇華しつつ、平安時代には本地垂迹説の影響で仏教色を濃厚に帯び、熊野坐神社(本宮の古称)の祭神家津御子神の本地(本体)は阿弥陀如来、熊野速玉神社(新宮)の祭神速玉神の本地は薬師如来、熊野夫須美神社(那智)の祭神夫須美神の本地は十一面観音として習合された。いわゆる三所権現の成立である。
熊野本宮の旧社地大斎原は、現在の本宮大社の正面大鳥居かに東へ約500m、音無川と熊野川とに挟まれた約三万平方メートルの三角州である。清水な水の中に浮かぶ巨大な「浮宝」(船)を思わせるようなこの島は、古くから「宇豆の原」「三津ヶ原」「浮島ヶ原」「巴ヶ渕」「中島」「新島」などとも称されてきた。
その中に荘厳さを極めた社殿が数々立ち並んでいたが、これらの社殿も明治22年8月19日〜20日の大洪水で上四社の社殿を残して、ことごとく流失した。実に、熊野川の最高水位が80メートルにも上ると言う未曾有の災害であった。この時、神官らは、ご神体を晒しの布に巻いて背負い、杉の大木によじ登ったり、船で逃れたりしてお守りしたと言う。
翌々年の明治24年3月、下祓所のあった現在の丘上に社地を移した。流失を免れた上四社の社殿を移建造営したが、本宮全体の建造物の規模は以前の八分の一ほどに縮小したと言うから、元の本宮がいかに気宇壮大の造りであったか想像できよう。
現在、平成12年に、この旧社地大斎原にはかっての壮大さが偲ばれる日本一の高さ(33.9m)を誇る大鳥居が建立された(左下図面参照)。平成12年5月11日、神社関係者、責任役員、氏子総代、敬神婦人会、氏子青年会、工事関係者、講員、崇敬者が参列して、大鳥居竣工式・竣工祝賀会が盛大に催行されまし。当日は、会場が鳥居の足下に設営され約500名を越える参列者で賑わいました。
(参考文献/向陽書房の熊野古道より)

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