山岳重畳とした幽邃の地、熊野は、神武東征やイザナミノミコトの葬送伝承が語られ、また壮烈な捨身、火定(焼身),補陀落渡海の風習をとどめているように、古くから死と転生や超現実(まぼろし)、幽と現実(うつしみ)明との交錯する幽冥界と見なされてきました。
のちに熊野山は、熊野三山または熊野三所権現とも表現されるように、本宮、新宮、那智の三社鼎立する信仰形態をもつようになりましたが、もとは、それぞれ別箇の信仰体を持ち、山、川、滝などに宿る神秘性や霊威に神性の発現を感じ、それを土着の地主の神として祭り鎮めていたようです。
その民族的な神々が、発生の基層から昇華しつつ、平安時代には本地垂迹説の影響で仏教色を濃厚に帯び、熊野坐神社(現在の熊野本宮大社)の祭神、家津御子神の本地 (本体)は阿弥陀如来、熊野速玉神社(現在の熊野速玉大社)の祭神速玉神の本地は薬師如来、熊野夫須美神社(現在の熊野那智大社)の祭神夫須美神の本地は十一面観音として習合されました。これによっていわゆる三所権現が成立したとされます。
熊野本宮の旧社地である大斎原(おおゆのはら)は、現在の本宮大社の正面大鳥居から東へ約500m、音無川と熊野川に挟まれた約三万平方メートルの三角州である。清水な水の中に浮かぶ巨大な「浮宝」(船)を思わせるようなこの島は、古くから「宇豆の原」、「三津ヶ原」、「浮島ヶ原」、「巴ヶ渕」、「中島」、「新島」などとも称されてきました。
かつてはその中に荘厳さを極めた社殿が数々立ち並んでいましたが、これらの社殿も明治22年8月19、20日の大洪水で上四社の社殿を残して、ことごとく流失してしまい、神官らは、ご神体を晒しの布に巻いて背負い、杉の大木によじ登った り、船で逃れたりしてお守りしたと言います。
この翌々年、明治24年3月。本宮大社は下祓所のあった現在の丘上に社地を移し、流失を免れた上四社の社殿を移建造営したました。しかし本宮全体の建造物の規模は以前の八分の一ほどに縮小したということから、元の本宮がいかに気宇壮大の造りであったか、現在は想像するしかありません。。
平成12年に、この旧社地大斎原には、かつての壮大さが偲ばれる高さ33.9mの大鳥居が建立されました。
平成12年5月11日、神社関係者、責任役員、氏子総代、敬神婦人会、氏子青年会、工事関係者、講員、崇敬者など約500名が参列して、大鳥居竣工式・竣工祝賀会が盛大に催行されました。
(参考文献/向陽書房の熊野古道より)