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このコーナーは毎月約20人づつ掲載を増やしていく予定です。
このページは疋田眞臣先生が編集代表された
『熊野TODAY』はる書房刊より転載しています。
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近・現代熊野の人々 編者代表 疋田眞臣先生ご紹介のページへ
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■大井卜新(1834−1924)経済界 ■湯川寛吉(1868−1931)経済界
紀和町西山平谷の出身。幼名・熊吉、のち熊耳、卜新と改名。10代の始めに上阪、その後同郷の田本研造とともに長崎に遊学、オランダ人ポンペ、ポートエンらから医学、写真術を学んだ。当時から親交していた高並大輔は、のち卜新の養子となり、大井憲太郎(自由民権運動家)となった。文久元年(1861年)、大阪で医師開業、明治元年(1868年)、大阪仮病院医学校開設時から病院医師、教師をつとめた。一方で米国薬品や写真機とレンズの輸入、販売にも当たっていたが、18(1885)年、硫酸製造会社を起こして本格的に実業界に転じ、伊和鉄道、大阪鉄道、大阪電灯、日本染織、東洋紙工など多くの会社を設立してその社長、重役に就き、24(1891)年には大阪商工会議所副会頭になった。37(1904)年から8年間、三重県選出の衆議院議員もしている。  新宮市出身。新宮藩主の典医の息子で、はじめ医者をめざして和歌山医学校から東京の大学予備門の医学部に入ったが、途中方向転換、東京大学独法科卒。逓信官僚として進むうち、住友に招かれ、大正14(1925)年から昭和5(1930)年まで、住友合資会社の総理事。住友財閥が現業部門を独立化させてコンツェルン化する時期の最高指導者であった。また大阪手形交換所委員長、南満州鉄道監事等もつとめ、住友退任後は貴族院議員もつとめた。陽明学者、大塩平八郎の高弟で、乱をさけて帰郷、江戸・昌平睾で長年研鑽を積んだ後、郷里に戻って子弟の教育、文化の発展につくした儒家、書家、漢学者の湯川麑洞(げいどう、1815−1875。本名・裕。別号・黒仙堂、君風など。「経書釈義」「麑堂詩文集」などの著作あり)はその伯父にあたる。
■鳥居達也(1922−1974)経済界 ■三鬼陽之助(1907−)経済評論
 太地町出身。新宮中学から上智大学文学部新聞学科に進むも、間もなく軍務につく。戦後、一時新聞記者をしたのち、服飾関係に移り、アメリカの通販会社から掲載権を得て、昭和24年から翌年にかけ「アメリカン・スタイル全集」(全25巻)を発刊、アメリカンスタイル全盛の折から10万部を売りつくした。また33年、「ホンコソ・シャツ」を創作、36年、帝人と結んで発売。これが広がり、半袖ワイシャツが日本に夏用通勤着として定着するきっかけとなった。38年から46年まで東急エージェソシーの代表取締役専務をつとめたほか、「ファッション年鑑」 の発刊(37年)、ホテルや外人居住者向け英語によるケーブルテレビ会社の設立 (45年)など幅広く活躍していたが、49年、52歳で死去。太地、飛鳥神社の鳥居誠史はその兄。  尾鷲市三木浦町出身。小4まで三木浦にいて、以後名古屋中、法政大学法学部卒業。昭和6 (1931)年、ダイヤモソド社入社。8年、投資経済社創立に関わり、編集長となったのをはじめ、17年、産業経営研究所創立、所長就任、19年、東洋経済新報社入社、論説委員、編集長等歴任。28年に財界研究所設立、雑誌「財界」 を主宰するとともに、社長、会長をつとめた。財界の鬼検事、財界御意見番などと呼ばれ、「決断力」 「社長受難時代」 など、90余冊に及ぶ著作の読者には財界人、経営者はもとよりビジネスマソも多いという。 
■佐々木国雄(1912−)経済界 ■野崎城之助(1913−)経済界 
日本文教出版 (株)会長。古座川町高池出身。高池尋常小学校、田辺中学卒業。三省堂大阪支店及び上海出張所勤務、日本出版配給(株)上海出張所勤務をへて、昭和23 (1948)年、大阪に文教社を設立。三省堂その他の出版社と学校や書店との取次業務から始めて、やがて小学校図画工作の副読本や教科書作りへと転じ、26 (1951)年、日本文教出版を設立してその初代取締役社長に就任。小学校図画工作、中学校美術、高等学校美術・工芸・商業美術など図工・美術関係の教科書発行では業界最大手で圧倒的シェアを持つ。その他、道徳や社会の教科書や、美術、教育、保育、健康などに関する一般書も数多く手掛けている 積水化学工業(株)創立者の丈。新宮市出身。新宮中学、東京商大(現・一橋大学)卒業。新宮中学では畑中武夫と同級。日本窒素入社、勤務ののち、軍務に従事し、北朝鮮からインドネシアのスマトラ島に転戦。戦後、復員して間もなく、昭和22(1947)年3月、日窒時代の同僚6人とともに、それぞれ資金を出し合って、プラスチック成型加工の会社「積水産業」を設立、これが現在の積水化学グループのスタートとなった。本社常務取締役、積水樹脂(株)社長、本社専務取締役を歴任した。
■大桑 勇(1915−)経済界 ■速水 優(1925−)経済界
 (株)チェーンストアオークワ取締役会長。熊野市五郷出身。五郷高等小学校卒業。一時病気療養したのち、昭和13(1938)年、熊野市木本で呉服の行商を始め、16(1941)年、紀州鉱山があって賑わいを見せていた紀和町板屋に念願の18平方bの衣料店を開き、しだいに拡充、31年には紀南唯一の衣料百貨店を開店。しかし鉱山の廃止を機に熊野市、新宮市に進出、百貨店建設の予定だったが、時代の趨勢を見て予定を変更、34(1959)年、和歌山県下初のセルフサービスのスーパーマーケット「主婦の店新宮店」を開いた。その後、50(1975)年、社名をチェーンストアオークワと改め、近畿一円へ積極的にチェーン展開、(平成6年度現在)店舗数約90、従業員数(準社員含め)約6000、年商約1600億円の企業に成長させた。平成六(1994)年には(財)大桑教育文化振興財団を発足させ、地域の教育、文化活動の活性化にも意を用いている 神戸市出身。本年3月20日、日商岩井相談役から日本銀行総裁に就任。父は尾鷲市、母は松阪市の人で、三菱銀行の支店長などをしていた速水量平の三男。尾鷲市、石渕薬局の石渕祝は叔母、医師の内山(旧姓・畦池)廉子は従妹にあたる。東京商科大学(現・一橋大)卒業後、昭和22(1947)年、日本銀行に入行。外国局次長、ロンドン駐在外事審議役、外国局長、名古屋支店長などを歴任、昭和53(1978)年から日銀理事に就任。昭和56(1981)年、日商岩井に移り、専務、社長、会長を務め、また平成3(1991)年ー7(1955)年、経済同友会代表幹事を務めた。国際金融や金融政策に精通し、組織運営の経験も豊かで、財界活動によって国内外に知名度も高く、日銀総裁としての活躍が期待されている。
■臼井孝之(1932−)経済界 ■吉田光ェ(1935−)経済界
 田辺市出身。(株)ロイヤル・ホテル社長。元・東洋妨専務の脇村春夫(湘南高校野球部全国優勝時のメンバー。東大出身)は田辺の小・中学校時代の、また同時期ともに住友銀行副頭取をした沖野定夫 (京大出身)は田辺高校時代の同級生。東京大学経済学部経営学科に進み、脇村義太郎ゼミに学ぶ。住友銀行に入行、田園調布支店長、管財部長、本店営業部副部長、渋谷支店長、管理第一総本部総務部長をつとめ、取締役、常務、専務を経て平成4(1994)年から副頭取、6(1994)年から副会長。常務のころ、ある銀行の整理と吸収合併を行い、これが住友銀行の東京地域発展に大きく貢献したと見られる。一時、関西経済同友会の代表幹事もつとめた。平成9(1997)年、ロイヤル・ホテル社長に就任。関西東大会副会長でもある  尾鷲市出身。(株)第三銀行頭取。尾鷲高校時代、軟式テニス部員として活躍、インターハイで第三位に入賞。日本大学法学部卒業後、前身の第三相互銀行に入行、尾鷲支店に10年間勤務。その後、浜島、岡崎、豊橋、津各支店の支店長や業務本部渉外部長などをつとめ、取締役として営業本部営業堆進部長、本店営業部長、営業本部副本部長、常務、専務を歴任、平成7(1995)年、副頭取となり、9 (1997)年、頭取に就任した。銀行取引の基本は顧客と信頼関係を築き、その関係を良好に保つことにあるとの考えから、現在も精力的に取引先を訪問、営業畑を歩んだ経験を活かし率先して活動している。
■更谷喜延 松実喜代太 他 ■佐藤虎次郎(1968−1928) 海外雄飛
 明治22(1889)年8月18日から19日にかけての未曾有の大豪雨により、十津川郷では死者168人、流失家屋426戸などの大被害を出し、山林、田畑なども潰減的な打撃を受けた。村人の今後の暮らしを心配した東京の郷人会メンバーらの懸命な努力による斡旋の結果、政府及び奈良県の許可を得て村人の多くが北海道に集団移民できることとなり、翌23(1890)年6月、約600戸、2600人の大移民団が空知地区に入植。新十津川村(現・新十津川町)と命名し、原野を開拓してここに新天地を築いていった。大正8(1919)年、開村30周年記念式典が行われ、移住・開拓功労者として、移民をすすめ、手続き等を説明して回った東武や西村晧平、初代戸長をつとめた更谷喜延、歴代の移住民総長だった松実喜代太、西村正一、池本楳吉、沖垣文太郎、その他、鈴木莞爾、中島亀吉、榊本彦和、植田重太郎といった人々が表彰されている。 埼玉県生まれ。横浜に出て働きながら英語を学び、明治18(1885)年、波米ミシガソ大学を卒業。24(1991)年、古座川町高池の佐藤おくと結婚、豪家の佐藤長右衛門の養子になり、26年、オーストラリアに波った。木曜島周辺のアラフラ海域では、当時すでに真珠採集事業がさかんで、外国人請負業者の雇い入れ水夫として、多くの和歌山県人を含む日本人が働いていたが、佐藤はこの事業の有望なのに目をつけ、みずから紀南の若者を誘って大々的に事業を展開、一時は2000人近く雇用して「木曜島のキング」といわれた。その後、紀南沿岸各地の人々も同様の請負事業に乗り出し、アラフラ海はますます活況を呈することに。明治34(1901)年、帰国。その後、埼玉県選出の衆議院議員となり、「横浜新聞」を発刊、貿易振興と日本の海外発展の必要性を説いたという。
■竹中儀助(1989-1965)海外雄飛 ■南弥右衝門(1880−1973)海外雄飛
 白浜町東富田出身。27歳のときから満州で肥料、穀物の卸、小売商をしたあと、昭和4(1929)年、39歳でブラジルに渡航。サンパウロ市で会社づとめをしていたが、戦後独立し、23(1948)年、肥料、農薬、農機具、種子苗を扱う商社、竹中商会を設立。しだいに業務を拡大して、やがてサンパウロ一の大事業主になった。29 (1945)年からブラジルの和歌山県人会会長をつとめ2000人の県人移民の受け入れとその生活向上のためにも尽くした。竹中の出資によってできた「竹中養源会」 は、紀南から大学に進学する子女たちの奨学制度としていまも広く役立てられている。  すさみ町江住の出身。明治3人 (1905)年、25歳でハワイに破り、さらにカリフォルニア州に渡る。8年間、ガタループ市の農場で砂糖大根栽培に従事したあと独立、サンタマリア荒地を開拓して約2000ヘクタールの農場を建設、レタス、カリフラワー、セロリを栽培、全米市場に行きわたらせた。日本人移民の面倒をよく見たり、郷里の学校に多額の寄付をしたりしたことで知られるが、米国中央日本人会長などとして日米親善に尽くした功績も大きい。
■清水三彦(1880−1982)海外雄飛 ■中村覚之助(1878−1906)サッカー
 那智勝浦町下里字天満の生まれ。下里高等小学絞卒業後、上京。正則予備学校に学んでいたが、雄志を抱いて17歳のときまず香港へ、次いでカナダへ渡航。仕事に勉学に懸命に励み、23歳のときロサンゼルスに出てリトル東京で旭靴百貨店の経営を開始(はじめ共同で、のち単独経営に) し、実業界に乗り出した。太平洋戦争中、一時抑留されたが、戦後百貨店を再開、大いに発展させた。ロサンゼルス商工会議所会頭、同日本人会長、南カリフォルニア州商工会議所会頭などをつとめ、日本人移民の受け入れや支援、あるいは日本スポーツ選手団への援助などに尽くし、また故郷の学校教育振興のために多大の寄与をしたことでも知られる。  那智勝浦町那智浜の宮出身。和歌山師範を卒業し宇久井小学校で1年間勤務ののち、明治33 (1900)年、東京高等師範(のちの東京教育大学)博物学科に入学。35 (1902) 年、わが国サッカー界では初めてと思われる米書の翻訳を行い、「アッソシェーショソ・フットボール」 として、翌年鐘美堂から東京高師蹴球部の名前で出版。また東京高師に蹴球部を創設、部員を集めて本格的に練習を開始。以来、全国各地の中等学校から要請されてア式フットボール (現・サッカー) を指導に回り、これを広める働きをした。37(1904)年2月、横浜公園で東京高師チームが横浜外国人チームと対戦(これが外国人チームとの対戦の囁矢とみられる)、連戦連敗に終わった。その後中村は卒業して清国山東省済南師範学校に赴任したが、39 (1906)年、28歳で死去。なお、大正10 (1921)年設立の大日本蹴球協会(現・日本サッカー協会の前身) はその旗章(シンボルマーク) に三本足の鳥、八咫烏(ヤタガラス)を用い、いまに引き継いでいるが、この旗章の発案者が東京高師の後輩で同校チームの中心選手だった内野台嶺であることを併せ考えると、中村を介してこの旗章と熊野の伝説とが何らかの形で結びついたのではないかと推測される。【八咫鳥‥中国の神話などで太陽の中に住むとされる鳥で、神武天皇東征の折、天照大神の命により、天皇一行を案内して熊野沿岸部から本宮、十津川を越えて大和にいたる険路を無事踏破させたといわれる。】 
■植芝盛平(1883−1969)合気道
田辺市出身。県立第二中学 (田辺中学) に入学するも、病弱のため一年足らずで中退したという。日露戦争に参戦、その後25歳のとき、柳生流柔術の免許皆伝を授けられた。明治45(1912)年、北海道開拓民に応募、80余人の同志の団長として紋別郡白滝の原野に移住。そこで武田惣角から大東流柔術を学び、免許を得た。大正8(1919)年、京都府綾部の出口王仁三郎に出会い、心を開かれ、綾部で「植芝塾」を開設。その後、気・心・体一致の理念にもとづく「合気道」を完成、昭和2 (1927)年、東京を中心に指導、教授を始めた。これがその後日本各地に、そして世界中に合気道の広まるきっかけとなった。