| ■小倉 清(1932−)医学 |
■下村 悦夫(1894−1945)文芸・評論 |
| 新宮市本町出身。新宮高校、慶応義塾大学医学部卒業。昭和34(1959)年米国留学、エール大学及びカール・メニンガーのクリニックに学び、42(1967)年帰国。わが国小児精神科医の草分けで関東中央病院精神科で診療に当たりながら、東大、京大などで講義また執筆や放送、講義活動を通じて小児精神医療の普及、発展に努めてきた。現在は開業。主な著書に「子どもの精神療法」「こころの世界」「親子関係の理論」「子どもの心身症」「プレイセラピー」「〈土居健郎・小倉清対談集〉治療者としてのあり方をめぐって」などがある。前・紀南歯科医師会長の小倉耐(1935−)はその弟 |
本名・悦雄。新宮市出身。新宮男子高等小学校卒業。短歌をよくし、歌人を目指して上京したが、間もなく帰郷(のち昭和16年、若い頃の短歌1000余首をまとめ歌集「熊野うた」を発刊)。生活の資を得るため、はじめ紀井潮雀の名で、やがて下村悦夫の名で大衆文学の作品を書いた。大正14(1925)年、「キング」創刊号から「悲願千人斬り」を連載して、一躍流行作家として注目され、坂妻主演で作品が映画化されたりもした。他に「神稲水滸伝」「人語島大秘記」「美女狩秘話」「元禄風流侍」など。終戦直後、疎開先の熊野市木本で死去。
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| ■沖野 岩三郎(1876−1956)文芸・評論 |
■佐藤春夫(1892−1964)文芸・評論 |
| 日高郡美山村寒川出身。和歌山師範卒業後、一時寒川、龍神の小学校教員、校長。上京して明治学院に学び、卒業と共に明治40(1907)年から約10年、新宮教会牧師。大石誠之助らと親交、そのために大逆事件の際には捜査を受けたりしたが、連座は免れた。大正6年(1917)年、上京、大逆事件での体験をもとに書いた小説「宿命」が大阪朝日新聞の懸賞小説に二等当選、連載されたのを機に文筆活動に入り、小説、童話、伝記、紀行文など数多く発表。昭和6(1931)年欧米、インド、中国各地を訪問。20(1945)年、空襲で東京の自宅焼失後、軽井沢に住み30(1955)年浅間高原協会を設立、牧師に復した。 |
新宮市出身。新宮中学卒業、慶応義塾大学文学部中退。早くから「スバル」その他に作品を発表していたが、大正7(1918)年、「田園の憂鬱」(病める薔薇)を発表して文壇の地位を確立。谷崎潤一郎夫人千代子との恋愛、結婚(昭和5年)で世間の注目を集めたこともあった。詩人、訳詞家、小説家、評論家として「お絹とその兄弟」「殉情詩集」「退屈読本」「神々の戯れ」「車塵集」「晶子曼荼羅」「小説永井荷風伝」など数々名品を作った。”あはれ秋風よ”で始まる「秋刀魚の歌」や”空青し”とうたった「望郷五月歌」などで広く人々に親しまれている。昭和35(1960)年、)文化勲章受章。熊野速玉大社境内に東京小石川関口の佐藤邸を移築した記念館がある。 |
| ■奥 栄一(1891−1969)文芸・評論 |
■那須辰造(1904−1975)文芸・評論 |
| 新宮市出身。新宮中学卒業、早稲田大学中退。佐藤春夫とは中学時代同級。春夫、下村悦夫らとともに郷土文芸誌「はまゆう」に詩、短歌を発表。大正7(1918)年、上京して東雲堂店主西村陽吉、新宮出身の大石七分、永田衡吉らとともに「民衆の芸術」を創刊、みずからも詩、評論、小説を載せていた。テオフィユ・ゴーティエの「金羊毛」のほか、「死刑囚最後の日」「大渦巻」「おじいさんの椅子」などの翻訳がある。婦人運動家でのち主婦連合会会長の奥むめお(1895−1997)と結婚していたが、離婚。再婚の妻・浜子との共著で詩歌集「蓼の花」を出版している。 |
田辺市出身。田辺中学、東京大学仏文科卒業。実践女子大学教授、フランス文学者、小説家、児童文学者。昭和8(1933)年、初の短編小説集「釦つけする家」を出版。その他「次郎兵衛物語」「鯛舟」「李花哀傷」などの作品があるが、戦後、児童文学へと進み、少女小説「哀傷日記・・・南海のほとり」少年小説「みどりの十字架」(昭和31、産経児童出版文化賞)などを著した。ジョルジュ・サンドの「かもめ岩の冒険」などフランス児童文学の翻訳や、「芭蕉物語」「ナポレオン」「葛飾北斎」などの伝記も多い。 |
| ■鷲山第三郎(1893−1980)文芸・評論 |
■永田衡吉(1893−1990)文芸・評論 |
新宮市出身。新宮中学、明治学院神学部及び英文学部卒業。大正12(1923)年、「シェークスピア悲劇の研究」を出版、わが国シェークスピア研究の先駆けとして大きな反響を呼んだ。明治学院教授になってのち、カリフォルニア大学大学院に留学、シェクスピア研究でM.A.(文学修士号)を受く。訳書にブラッドレー「沙翁の悲劇」、著書に「自然詩人ワーズワース」「悲劇と神の問題」など。室蘭工業大学教授、北里学園大学文学部長、同学長、川村女学院英文科主任教授を歴任。日本英学史学会会長もつとめた。
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新宮市出身。新宮中学、札幌中学、東京開成中学をへて早稲田大学英文科と東京大学美学美術史選科を卒業。大正12(1923)年、中央公論に戯曲「廟戸皇子」を発表。以来、「平維盛」「源義朝」「平家の人々」「山彦瀞八丁」「温泉紅葉」「伊豆の椿」など70余編の史劇、現代劇を執筆。その多くは歌舞位座をはじめ東京、大阪の大劇場で上演された。また昭和2(1927)年、柳田国男、折口信夫らとともに「民俗芸術の会」を設立、雑誌「民俗芸術」を発刊、わが国民俗芸能研究の先駆的業績をあげた。芸能書に「日本の人形芝居」「神奈川県民俗芸鰭誌」「民俗芸能・明治大正昭和」など。28(1952)年7月、横須賀市久里浜における外務省、米海軍共催の、世界最大演模の開国記念ページェソト「ペリー釆航」では、その監督として活躍。その他、早大の坪内悸土記念館や国立劇場の建設運動にも多大の貢献をしたという。
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| ■山本七平(1921−1991)文芸・評論 |
■中上健次(1946−1992)文芸・評論 |
| 東京都出身。父・文之助、母・∧重とも新宮市三輪崎の生まれ。角源泉(逓信省高官、大阪市電気局長、弁護士、初代新宮市長、代議士などをつとめた)、永田衡吉は父方の、玉置酉久(明治17年受洗したクリスチャンで、大石誠之助の兄)は母方の親族に当たる。青山学院に学び、フィリピンで軍務につき、捕虜収容所生活ののち帰還。昭和45(1970)年、イザヤ・ベンダサンの名前で「日本人とユダヤ人」を出版(講談社第二回ノンフィクション賞受賞)。以来20年間、独自の批評精神をもって評論活動を展開、戦後思想史に大きな足跡を残した。「怒りを抑えし者」の表題で、平成9年、PHP研究所から評伝が出版されている。 |
新宮市出身。新宮高校在学中、マルキ・ド・サド、ジャン・ジュネ、セリーヌなどに傾倒したという。高枚卒業後上京、肉体労働をしながら「文芸首都」同人として次々に作品を発表。昭和48(1973)年、「十九歳の地図」で芥川賞侯補になり、50(1975)年、「岬」で戦後生まれ初の芥川賞を受賞。その後も熊野を舞台に独自の文学世界を展開、日本文学界に新風をまきおこし、国際的にも広く注目される作家となった。平成元年(1989年)以来、新宮で自主公開講座「熊野大学」を開催、月一回、人々と文学や歴史、民俗、芸能などを語り合い、論じ合った。「枯木灘」「紀州木の国・根の国物語」「化粧」「鳳仙花」「熊野集」「火まつり」「軽蔑」「異族」など。次の日本人ノーベル文学賞受賞着かと期待されていただけに、その早逝は惜しまれる。 |
| ■天狗太郎(1923−1996)文芸・評論 |
■城 夏子(1902−1995)文芸・評論 |
| 本名・山本亮介。古座町出身。作家・将棋史研究家。串本商業(現・串本高校)、彦根高等商業(現・滋賀大学)卒業。三菱商事元副社長、谷口芳男は串商時代の同級生。サンケイ新聞、朝日新聞学芸部記者をへて、昭和38(1963)年独立。日本文芸家協会会員で将棋史研究の第一人者。「昭和将棋指し列伝」「将棋庶民史」「将棋とっておきの話」「将棋の民俗学」「学徒出陣ふたたび」「南紀古座随想」「種痘医小山肆成の生涯」「母よりの恋文」など多くの著書があるほか、編著に「日本将棋大系」(全18巻)がある |
本名・福島静。すさみ町江住に生まれ、東京で育った。小四のとき和歌山市に移り、和歌山高等女学校に。在学中から少女小説を書いていたが、卒業後文学を志し、上京、雑誌「令女界」の編集を手伝ったりした。大正12(1923)年、竹久夢二の装丁、挿絵で、少女小説集「薔薇の小径」を刊行。その他、「尾崎紅葉」「毬をつく女」「薔薇の花の長い服」「六つの晩年」、随筆集「おてんば70歳」「愉しみ上手老い上手」など。叙情的な作風で知られる。 |
| ■大久保房男(1921−)文芸・評論 |
■竹原撲一(1852−1930)政治 |
| 熊野市出身。津中学から慶応義塾大学国文科に進み、折口信夫らに学ぶ。昭和18(1943)年、学徒出陣で海軍予備学生となり、20年、終戦とともに復員して復学、21年9月卒業。そして講談社に入社し、創刊直後の「群像」編集部に所属、約20年間それに携わったが、とくに30(1966)年から41(1966)年まで11年間、同誌編集長。「週刊現代」初代編集長などもつとめた。エッセイ、評論に「文士と文壇」「文藝編集者はかく考える」「理想の文壇を」など、小説に「海のまつりごと」(平成3年度、芸術選奨文学部門新人賞)がある。 |
鵜殿村の人。明治18(1885)年から三重県議会議員、また同時に25(1892)年から宇和野村(現・鵜殿村と紀宝町井田、神内三地区を含む)村長、鵜殿が分村独立した翌26年から初代鵜殿村長。以来、途中1年を除き大正12(1923)年まで同村長の任にあった。一方、県議会では明治42(1909)年から副議長をつとめた。大正13(1924)年の衆議院選に南・北南牟婁郡から出馬して初当選。初当選としてはわが国憲政史上最高齢の記録であるという。任期中、紀勢鉄道敷設運動などにカを尽くしたが、次の昭和3(1928)年の選挙に出馬せず、一期4年で退いた。 |
| ■山口熊野(1864−1950)政治 |
■豊田貞四郎(1885−1961)政治・軍事 |
| 那智勝浦町浦神出身。和歌山医学校、東京外国語学校(現・東京外大)ドイツ語科に学んだ。板垣退助らの自由民権運動に共鳴、明治19(1986)年、ひそかに渡米、海外初の邦字新聞「新日本」を発刊、それを日本に送って藩閥政府の政治をしきりに批判、帰国後、逮捕、投獄されたりした。31(1898)年、衆議院議員に当選、以来24年間、議会に籍を置き、鱒野の地を「陸の孤島」の状態から脱却させるために、紀勢鉄道(現在のきのくに線)敷設運動を中心になって展開。10数年に及ぶ努力の末、大正7(1918)年、鉄道敷設法案を可決、成立させた。 |
田辺市出身。海軍兵学校、海軍大学校卒。海軍大将。英国大使館付武官、ジュネーブ軍縮制限会議随員、佐世保鎮守府長官等をつとめ、昭和16(1941)年から商工大臣、外務兼拓務大臣、軍需兼運輸通信大臣を歴任。戦後処理の任にも当たった。太平洋戦争勃発直前には、和歌山市出身の野村吉三郎駐米大使とともに日米開戦に慎重な姿勢で臨み、平和のために努力したという。戦後は日本製鉄社長等をつとめた。 |
| ■片山 哲(1887−1978)政治 |
■五鬼上堅磐(1897−1971)法曹界 |
| 田辺市出身。田辺中学、三高、東京大学独法科卒。東京女子大講師、弁叢士ののち、大正15(1926)年、社会大衆党結成、書記長に就任。昭和5(1930)年、神奈川県から立候補し衆議院議員に当選、以来11回当選。昭和22(1947)年の総選挙で第1党となった社会党党首として、同党初の内閣総理大臣に就任。しかし翌23年2月に総辞磯、わずか8か月の短命内閣に終わったが、教育基本法の徹底や地方自治の確立等に果たした役割は大きいとされる。社会党分裂後は民社党代議士。日中友好運動に尽くし、世界連邦運動の提唱者でもあった。 |
御浜町出身。中央大学法学部に学ぶ。大正11(1922)年、弁護士を開業し、昭和21(1946)年から大審院検事兼司法省官房秘書課長。その後、最高裁判所事務総長、名古屋高等裁判所長官、大阪高等裁判所長官を歴任、昭和37(1962)年から43(1962)年まで、最高裁判所判事。退官後、弁護士開業のかたわら、国際法曹協会会長もつとめた。
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| ■奥野健一(1898−1984)法曹界 |
■知野虎雄(1919−)官界 |
田辺市出身。東京大学法律学校を卒業して司法省入り。東京控訴院部長、仙台地方裁判所所長、大審院判事、参議院法制局局長等を歴任、昭和31(1956)年から43(1968)年まで、最高裁判所判事。砂川事件、東大ポポロ事件、八海事件などに関与した。その長男、奥野健男(1926−1997)も文芸評論家として活躍した。
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串本町出身。元・衆議院事務総長、会計検査院長。昭和17(1942)年、九州大学法学部法文学科卒業後、内務省に入省。海軍軍務に従事したのち、熊本県地方課長兼人事課長として出向。昭和21(1946)年、衆議院書記官として中央に戻り、以来27年間衆議院事務局にいて、昭和42(1967)年−48(1973)年、事務総長をつとめた。その後、会計検査院の検査官となり、昭和53 (1978)年ー55(1980)年、会計検査院長の任に当たった。 |
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