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このコーナーは毎月約20人づつ掲載を増やしていく予定です。
このページは疋田眞臣先生が編集代表された
『熊野TODAY』はる書房刊より転載しています。
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近・現代熊野の人々 編者代表 疋田眞臣先生ご紹介のページへ
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■福田 静処(1865−1944)書画 ■市村 雄造(1906−1945)美術界
新宮市出身
幼名・中村世耕、のち親族の福田姓を嗣ぐ。雅号・静処、古道人、碧翁、俳号・握栗、遠人など。漢学者で漢詩、俳句、書、画のいずれにも秀でた超俗の大家で、自らは隠逸を楽しみ、世に出ようとしなかったという。東京、京都、新宮に住み制作。上京していた明治20年代末から30年代初めにかけて、正岡子規、高浜虚子らと俳句を通じ交遊。昭和3(1928)年、時の首相や有名学者、文人らが名を連ね発起人となって、東京三越などで静処の大展覧会を催したこともあった。新宮、古座で指導していた兄・中村師竹も優れた書家だったという。渡瀬凌雲も静処に師事していた。
新宮市丹鶴町生まれ
浜地清松、上野山清貢、牧野虎雄に師事するが、ほとんど郷里にいて制作。独立美術展旺玄社展、旧亭展第二部会展に何度も入選し文展にも入選、昭和15(1940)年には「楽しき日の兄弟」で岡田三郎助賞も受賞。この頃、大作「三熊野」(那瀑)で画壇の注目を浴び全国紙の美術評などにしきりに取り上げられ、また新聞の連載小説(大阪時事の寺崎慈著「戦火列車」)の挿絵を描いたりしていた。一時従軍画家として満蒙方面へ行き取材。その時の作品「渡河」が朝日新聞社主催の美術展で高い評価を受け、17(1942)年度の国定教科書(国民学校6年男子用図画教科書)に「行軍」の題名で掲載された。昭和20年、39歳で死去。
■浜地 清松(1885−19947)美術界 ■石垣 栄太郎(1893−1958)美術界
古座町出身
古座高等小学校卒業。明治34(1901)年、渡米。カリフォルニアで働きつつ画業を志、のちボストンで油絵を学び、ニューヨークで挿絵を描きながら生活。約18年間滞米ののち帰国。大正11(1922)年、新宮洋画研究所を開いて油絵を指導。14(1925)年再び渡米しさらにフランスに渡り昭和2(1927)年に帰国。翌三年亭展特選に入賞。その後第一美術協会結成や伏虎美術協会結成に参加し、また和歌山市で公募展を開催。昭和12(1937)年文展無鑑査になった。
太地町出身
16歳のとき新宮中学を中退、父に呼ばれて渡米、シアトルへ。レストランの皿洗いや掃除夫、美術品骨董修理の助手などをしながら画業にいそしむ。大正14(1925)年美術展に出品した「鞭打つ」がタイムズ、ヘラルド・トリビューンなどに取り上げられ、ニューヨーク画壇に認められる。以後社会派の画家として「労働者の行進」「リンチ」「ボーナスマーチ」「キューバ島の反乱」「K.K.K」「抵抗」などを発表、また昭和9(1934)年から三年間かけてハーレム地区の裁判所にアメリカ革命の歴史をテーマにした壁画を制作。こうして40余年間アメリカで活動した後、昭和26(1951)年帰国。妻はジャーナリストで評論家の石垣綾子(旧姓・田中、1903−1997)。太地町くじら博物館近くにその記念館がある。
■野長瀬 晩花(1889−1964)美術界 ■原勝 四郎(1886−1964)美術界
中辺路町近露出身
本名・弘男。近露小学校卒業後、大阪で中川蘆月のもとで日本画を学び、新設の京都市絵画学校(現・京都市立芸大)別科に学ぶ。大正7(1918)年新しい日本画をめざし国画創作協会を設立。10(1921)年から翌年にかけ欧米を旅して洋画を研究。昭和3(1928)年国画創作協会を解散して有志と共に新樹社を結成。戦前大手新聞社の嘱託として朝鮮や満州等にスケッチ旅行。新聞、週刊誌、雑誌に随筆とともに連載した。著書「北満国境を行く」も出版。昭和49年那智山を訪れたフランス文化省、作家アンドレ・マルローが西国三十三所第一番札所の青岸渡寺の本堂で「思いがけない立派な作品に出会った」と言ってじっと見入ったという墨絵「補陀洛浄土絵図」は晩花の初期の作品らしい。なお兄・長野瀬忠男(1886−1964)はアメリカで鋼鉄強化の技術を学び、大正5(1916)年鉄道車輛や自動車用バネ製作の帝国発条会社を設立、その一方で南方熊楠と組神社合祀反対運動を展開、野中の一方杉を守ったことで知られる人。
田辺市栄町生まれ
田辺中学校卒業後上京して東京美術学校や白馬会の研究所で洋画を学んだ。大正6(1917)年に渡欧、以後10(1921)年までの4年間、パリ、ローマ、ナポリ、カンヌ、アルジェ、ボルドーなど各地を放浪。帰国後は郷里に住んで風景や自画像、家族の肖像、バラなどの静物画を数多く描いた。戦前は二科会、戦後は二紀会に出品、賞も受けていたが中央画壇とはほとんど交渉を持たず一部の人々の間を除き無名でいわば孤高を保っていたしかし深い内面性をたたえたその作品には人を魅了するものがあり愛好者も多い。新宮を中心とした地域の美術教育に大きな足跡を
残した原愛造(1891−1964東京美術学校卒。新宮中学、新宮高校で美術を指導)はその弟。
■渡瀬 凌雲(904−1980)美術界 ■米良 道博(1903−1983)美術界
長野県生まれの日本画
中辺路町野中にあって代々大庄屋を営む家の出で野中の菩提寺、養命寺に牡丹、唐獅子を描いた襖絵がある。大平子州から南画を山本梅花から南宗画を学び福田静処にも師事。昭和8(1933)年和歌山県の嘱託となり、吉野熊野国立公園を隈なく写生。そうした熊野の風景を中心に全国各地、アジア各地の風景を描いた作品は国内外で高く評価されニューヨーク、ロサンゼルス、パリ等での個展、巡会展でも好評を博したといわれる。昭和41(1966)年日本南画展で文部大臣賞受賞。
那智勝浦町下里出身
明治末期の子供の頃西村伊作に水彩画を習ったという。和歌山師範学校在学中に油絵を始めその後大阪の信濃橋洋画研究所にも学んだ。昭和14(1939)年二科会特別賞を受賞、戦後も二科会会員として活動していたが30(1955)年二科会を脱し一陽会結成に参加した。
■小林 清栄(1894−1987)美術界 ■清水 昭八(1933−1996)美術界
熊野市神川町神上の出身
旧名・茂。神川尋常小、木本高等小、津中学、久居農林学校卒業。下北山村の西村家は母方の実家で、西村伊作に油絵の手ほどきを受け、のち川端画塾に学んだ。鹿子木孟郎、藤島武二らにも師事。大正13(1024)年から昭和2(1927)年までの渡仏中、サロン・ドートンヌやサロン・ナシオナルに入選、帰国後は亭展に3年連続入選したりした。依頼を受け昭和12(1937)年「乃木将軍旅順入城図」を制作。海軍航空艦隊に従軍、19(1944)年帰郷。戦後神川町長続いて27(1952)年から初代熊野市長となり、34(1959)年から三重県教育委員長。40(1965)年に再び上京、サロン・ド・トウキョーの常務理事などを努めた。88歳から四国八十八ヵ所霊場を隈なく歩き、約300枚の作品を仕上げその後大作「那智の滝」などの制作中に没したという。
太地町出身
新宮高校、武蔵野美術学校(現・武蔵野美大)西洋画科卒業。昭和36(1961)年文化庁の派遣で渡欧、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツで石版画(リトグラフ)等を学んで42(1967)年帰国。武蔵野美大造型学部油絵学科主任教授、モダンアート協会版画部会員、日本美術家連盟委員などとして活躍。リトグラフの普及に努め操作の簡単な版画プレス機の考案に尽くすなど版画教育の推進に果たした役割は大きい。平成9(1997)年2月妻・美津子により夫愛用の版画プレス機などと多額の奨学金が母校・新宮高校に寄贈された
■南方 熊楠(1867−1941)学問研究 ■小川 琢治(1870−1941)学問研究
和歌山市出身。
在野の世界的博物学者。和歌山中学卒業。大学予備門(現・東京大学)に入るも間もなく渡米。山野を歩き粘菌、地衣類の採集に励んだ。キューバ独立運動(1898年)に参加渡英して大英博物館員となり科学雑誌『ネイチャー』や民族学雑誌『ノーツ・エンド・キーリス』などに寄稿、世界一流の学者に伍して論陣を張った。明治33(1900)年14年ぶりに帰国。翌34年那智勝浦に移って熊野の山で菌類、藻類を採集、また高野山など各地で採集に取り組んだ。その後田辺に居を構え、採集と研究に没頭。そして約7000種の標本からなる「日本菌譜」を完成、数多くの粘菌新種を発見し世界的業績をあげた。一方、自然保護の立場から明治末から政府の神社合祀政策に強く反対、激しく闘ったことでも知られる。博覧強記で研究領域は生物、鉱物、宗教、民族、文学、美術など広範囲に及びその活動の全貌は容易につかみがたい巨大な存在。田辺市高野寺に眠る。
田辺市出身
和歌山中学から一高、東大へ進み地質学科に学ぶ。地質学者、地理学者で農商務省勤めの後京大教授に。満州の撫順大炭田の発見、日本列島の地質構造に関する研究で有名。学者一家で小川芳樹(冶金学)、貝塚茂樹(東洋史学)湯川秀樹(物理学。中間子論により日本初のノーベル賞受賞)、小川環樹(中国文学)四兄弟の父としてよく知られる。
■谷口 吉彦(1891−1956)学問研究 ■畑中 武夫(1914−1963)学問研究
那智勝浦町太田庄出身
和歌山師範卒業後、一時下太田、上太田小学校、太田実業学校の教員をしてさらに東京高等師範、京都大学経済学部に進み、
経済学史を専攻。和歌山高等商業(現・和大経済学部9、京大で教えていたが、大正15(1926)年から二年半、イギリス、ドイツ、アメリカに留学。その後京大九大の教授を兼任、昭和15(1940)年からと18(1943)年からの二度京大経済学部長を務める。戦後一時公職追放を受けた後甲南大学大阪市立大学教授を歴任、さらに選ばれて香川大学学長になったが在職中に没した。著書「配給組織論」「国際経済の理論と問題」など。
田辺市に生まれ、新宮市で成育。新宮中学」、一高、東大理学部を卒業し京大教授、東大教授に就任。はじめ天体力学を専攻、惑星状星雲の放射機構を研究、その第一人者となったが、戦後、電波天文学の情報がわが国にも伝わるとみずからテーマをそれに切り替えわが国電波天文学の開拓者となった。昭和28(1953)年東京天文台に口径10mのパラボラ型の電波望遠鏡が完成するや、太陽面の爆発により生ずる偏波の完全な観測に世界で初めて完成。32(1957)年東京天文台の天体電波部門の初代部長となり、同年米コーネル大学と共同して太陽電波の同時観測を開始、初の国境を越えての研究として話題を呼んだ。またロケットによる宇宙空間研究の推進につとめ、34年、国連の宇宙平和利用特別委員の政府代表理事として活躍。30(1955)年武谷三男、小尾信弥と協力して宇宙と恒星の進化に関する「THO理論」を発表、世界的に高く評価された。その著「宇宙と星」(昭和31初版)は今なお多くの人に愛読されている。ロングセラーという。37(1962)年スプートニク一号打ち上げ以来国際的に活躍していたが翌38年48歳で死去。月のクレーターに「ハタナカ」の名をとどめる。
■佐藤 良一郎(1891−1992)学問研究 ■大石 誠之助(1867−1911)医学
那智勝浦町出身
東京高等師範数物化学科卒業。ロンドン大大学院博士課程に学んだ。東京教育大、千葉大、日大、明星大教授を歴任。統計学を専門とし、わが国に初めて本格的な数理統計学を紹介したといわれる。日本数学教育学会会長、日本統計学会会長等をつとめた。「実験計画」と品質管理」「統計的推理」などの著書がある。元・帝京大学教授、仏文学、比較言語学の佐藤良雄(1899−、最近「仏語仏文の人々」を出版したほか『古事通信』に10数年にわたりエッセイ「思い出すままに」を連載している)はその弟。
新宮市仲之町出身
同志社大学に学び、渡米。コックをしながらオレゴン大学医学部を卒業。明治29(1996)年帰郷し、医院を開業。32年伝染病研究のためシンガポールに渡り、さらにインドのボンベイ大学に二年間留学。ここでインドのきびしい階級制度を目の当たりにし、その頃から社会主義思想の書を読むようになったという。帰国後医院を再開、また東京その他各地の新聞、雑誌に社会主義的視点からの随筆、論評などを寄稿。幸徳秋水、堺利彦らとの交友を深め、また彼らが発行する新聞、雑誌への資金援助も行った。一方沖野岩三郎らと雑誌「サンセット」を創刊、翻訳小説を連載、新思想として青年たちの人気を集めた。しかし明治43(1910)年
幸徳らの大逆事件に連座させられ、翌44(1911)年一月死刑に処せられた
■筒井 八百珠(1863−1921)医学 ■西川 義方(1880−1968)医学
新宮市出身
東くめの母方の伯父にあたる。松阪、浅山家の養子となり、三重県給費生として東京大学医学部に学ぶ。二年間ベルリン大学、ブレスラウ大学に留学した以外、二十余年間千葉医学専門学校教授などを務めていたが大正5(1913)年、岡山医学専門学校(現・岡山大学医学部)校長に任命され着任して直ぐに前年から続いた学園紛争を収拾、以後岡山医専の医科大学昇格と校舎、病院のために尽力。しかしその実現、完成(大正11年)を見ることなく前年に死去した。明治23(1890)年初版の著書「臨床医典」は本人及び長男徳光により増補改訂されつつ昭和19(1944)年まで版を重ねてきた超ロングセラーという・故郷の医療の充実のため人々を説き、共同出資で新宮病院を設立させたことでも知られる。
和歌山市西浜出身
和歌山中学、東京大学医学部に学ぶ。新宮市出身の先輩、筒井八百珠の薦めにより明治40(1907)年、新宮病院長となり、大正元年(1912)まで在任。新宮市船町、尾崎作次郎(初代)の娘・やすと結婚。大正7(1918)年、日本医専(現・日本医大)教授、翌19年から大正天皇・皇后の侍医に。その著「内科診療の実際」(大正11年初版)は専門医の間に広く利用されたベストセラーであったという。なお長男一郎もまた昭和天皇・皇后の侍医となり、いまもその任にある。
■古畑 種基(1891−1975)医学 ■沖野 節三(1897−1976)歯科学
紀宝町相野谷平尾井の出身
相野谷小、広瀬小、和歌山中(現・桐陰高)、三高をへて東京大学医学部卒業・金沢医科大、東大、東京医科歯科大教授を歴任、その後長く警視庁科学警察研究所所長をつとめた。法医学の第一人者で血液型研究の権威であり指紋、掌紋、親子鑑別等の研究も手掛けている。ABO式血液型遺伝法則の発見やO式、E式などの新血液型の発見などで世界的に知られる。ドイツの法医学、血液学、輸血学、人類遺伝学各学会やスペイン、アメリカ各国の法医学会の名誉会員であったほかわが国に犯罪学会や人類遺伝学会を創設、その初代会長もつとめている。帝銀事件、下山事件、財田川事件、松山事件などの鑑定にあたり、下山事件では死後轢断、他殺説をとったのは有名。また奥州藤原四代のミイラ調査で指紋及び血液型を検出して注目された。昭和18(1943)年学士院恩賜賞を31(1956)年文化勲章をうけている。
日高郡龍神村出身
旧姓・亀井。牧師、作家の沖野岩三郎の養子となる。新宮中学、東京歯科医学校(現・日大歯学部)卒業。日大教授になって後スイス留学、チューリッヒ大学、ウィーン大学に学ぶ。一時九州歯科医専教授・付属病院長をした後日大に戻り、教授兼付属病院長に。日本歯科医学会会長、アジア歯科医学会会長、日米歯科医学会会長等歴任。数多くの歯科医療器械を発明したことでも知られ、その発明功労により昭和41(1966)年、わが国歯科学会初の紫綬褒章を受章したという。