| ■山本玄峰(1866−1961)仏教界 |
■岸 信宏(1889−1979)仏教界 |
本宮町湯峰出身
木こり、筏流しなどの仕事をするうち眼疾にかかって失明の危機に陥り、裸足で何度も四国霊場を巡礼。24歳で出家した後全国を回って厳しい修行を重ね、還暦ごろからは欧米中国、インドなども遍歴。昭和22(1947)年臨済宗妙心寺派管長に就任。戦後の新憲法草案作成に際し、天皇制と民主主義の問題について「天皇は空に輝く星のような国民の象徴でよい」と法制関係者にアドバイスし、それが象徴天皇制につながったといわれる
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愛知県出身
11歳のときから田辺市、浄恩寺に入る。宗教大学(現・大正大学)研究院修了。唯識論専攻。大正12(1923)年ー昭和8(1933)年、浄土宗立仏教専門学校(現・仏教大学)教授等をつとめたのち浄恩寺住職。昭和23(1948)年、知恩院門主本派(地恩院派)管長になり、昭和37(1962)年、本派と増上寺派の合同成立以後、浄土宗初代門主となる。全日本仏教界会長もつとめ、国内はもとより、海外でも幅広く活動した。 |
| ■生駒萬治(1867−1937)教育界 |
■東 基吉(1872−1958)教育界 |
御浜町尾呂志出身
三重尋常師範(現・三重大学)、東京高等師範(のちの東京教育大学)理学部卒業。明治31(1898)年から4年間ドイツ留学東京高等師範教授ののち明治40年(1907)年から文部省視学官大正2(1913)年から同督学官。当時、中学校教職員は全国的に配置移動できたため、創立間もない紀南の中学校、高等女学校に中央から俊秀の教職員を数多く送りこんだといわれる。大正9(1920)年旧制佐賀高校(現・佐賀大学)創立とともにその初代校長となり、昭和10(1935)年まで15年間在任 |
新宮市出身
地元で代用教員をした後、和歌山師範(現・和歌山大学)、東京高等師範に学ぶ。明治33(1900)年東京女子高等師範(現・お茶の水大学)助教授兼付属幼稚園批評係となり翌34年保育雑誌『婦人と子ども』(現在の『幼児の教育』の前身)を創刊。37年『幼稚園保育法』を著しわが国幼児教育の先駆者に。自由主義、児童中心的幼児教育を推進したことで知られる。そうした立場から妻・くめに薦めて口語による童謡歌詞を作らせた。しかしその後幼稚園教育から離れ、明治41(1908)年から宮崎栃木・三重・大阪池田・宮城各師範学校校長を歴任。 |
| ■西村伊作(1884−1963)教育界 |
■世耕弘一(1893−1965)教育界 |
新宮市出身
大石誠之助の甥で下北山村・西村家の養子に。シンガポールや欧米を旅行合理的、進歩的、自由主義的文化人として絵画建築、思想、教育等に幅広く活動。特に大正10(1921)年中等教育ではわが国初の男女共学の学校『文化学院』を私財を投じて創設。また明治39(1906)年新宮に日本で初めての家族を中心に考えた洋風居間式住宅「バンガロー」を建て大正8(1919)年『楽しき住宅』を著し生活改善の一環として住宅改良運動を展開した(しかし日本での居間式住宅の普及は第二次大戦後まで待たねばならなかった。)昭和18(19439)年反戦的、反権威的言動を咎められ、逮捕、拘留されて文化学院を閉鎖させられたこともあった。新宮市伊佐田に残る自邸はいま記念館として保存展示されている。 |
熊野川町出身
苦学して日本大学法律学科に学び卒業。同大学の政治経済海外研究院として5年間ベルリン大学に留学。昭和6年日本大学教授。昭和19(1944)年大阪専門学校長に就任し、大阪理工科大学校長も兼任。昭和24(1949)年その専門学校、理工科大学を統合して近畿大学を創立、初代総長に就任。また衆議院議員を通算23年間つとめ国務大臣もつとめた。現・近畿大学総長、参議院議員の世耕政隆はその長男。 |
| ■東 くめ(1877−1969)教育界 童謡 |
■仲 新(1912−1985)教育界 |
新宮市出身
旧姓・由比。新宮小学校卒業。一時大阪にいたのち上京、東京音楽学校(現・東京芸大)に学ぶ。卒業後、東京府立第一高等女学校(現・都立白鳳高校)教員をしていたが同じ新宮市出身の東基吉と結婚。当時東京女高師につとめ、新しい幼児教の確立に情熱を注いでいた夫・基吉の薦めもあってくめは2級後輩の作曲家滝廉太郎と組み明治22(1900)年わが国で初めて口語体童謡「鳩ぽっぽ」を作詞。その後も東・滝のコンビで「お正月」「水あそび」「雪やこんこん」「さようなら」「ひばりはうたい」など作った。昭和33(1958)年NHKテレビ「私の秘密」で紹介され、いまなお広く親しまれているこうした童謡の作詞家が東くめであることが始めて一般に知られることいになった。 |
熊野市久生屋出身
旧制木本中学、大阪の池田師範を卒業、小学校訓練をしたのち東京大学教育学科に学ぶ。名古屋大、東大、青山学院大、日大の各教授を歴任。昭和37(1962)年の学位論文「明治初期の教育政策と地方への定着」はわが国地方教育史の基礎的研究でその後の研究に大きな影響を与えたとされる。「近代教科書の成立」「日本近代教育史」等、教科書史、学校教育史、学校教育史に関する研究、著書が多い。昭和53(1978)年ー57(1982)年地方教育史研究会会長。 |
| ■尾崎眞龍(1820?−1889?)尺八 |
■田本研造(1831−1912)写真 |
新宮市の人
普化尺八明暗真法流の名手で、多数の曲を弟子に伝えたという。京都明暗寺役僧として尊王の志士たちとも交わったりしていたが明治の初め、普化宗廃止後新宮に隠栖したとされる。新宮市千穂の全龍寺にその碑がある。 |
熊野市神川町出身
号・音無榕山安政元年(1854)年22歳のとき同郷の大井ト新とともに長崎に遊学、吉尾圭斉にオランダ医学を学ぶかたわらわが国写真界の開祖とされる長崎の上野彦馬や大井らとともにポンペらオランダ人から写真の知識を修得。安政(1859)年函館に渡りそこでロシア人ゼレンスキーから本格的に写真技術を学んだ。明治2(1869)年、函館に北海道初の写真場(写真館)を構え営業開始。明治4(1871)年から15(1882)年まで開拓使専属の御用写真師となり土方歳三や榎本武揚などの人物写真のほか函館戦争の爪痕やアイヌ人の生活、開拓民の模様など貴重なドキュメンタリー写真を数千点も残した。壊痕で右足切断の不自由もあってか生涯帰郷しなっかったが故郷の若者で田本を頼って北海道に渡り写真を習い各地で開業した者も多い。 |
| ■鈴木梅仙(1836−1918)製墨 |
■須川政太郎(1884−1955)愛唱歌 |
田辺市秋津町出身
本名・修三、号・梅翁。漢学を志したが病気で断念。墨の研究、改良に取り組み優れた品質の墨の開発に成功。「梅仙墨」は勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、橋本雅邦、富岡鉄斎、川合玉堂横山大観、犬飼木堂ら多くの墨客に愛好され名声を博したがみずからはただひたすら改良に専心、貧窮の中で暮らさざるをえなかったため見かねた作家たちが自分の軸を売り援助することもあったという |
新宮市谷王子出身
和歌山中学、上野音楽学校(現・東京芸大)甲種師範科に学ぶ。明治45(1912)年、北海道松前の出身で千葉県海鹿島に住む長谷川カタ(1890−1967)と結婚、翌大正2年、鹿児島師範音楽教諭として赴任。大正4(1915)年旧制七高の第14回記念式歌(築田勝三郎作詞「北辰斜めに」)を作曲。これが一高のああ玉杯に」や三高の紅萌ゆる」などと並ぶ旧制高校の名歌として長く歌いつがれることになった。その他七高の寮歌「白露しげき」や開校記念祭歌「夕陽直射す」等も作曲。政太郎はその後京都師範、彦根高女、愛知の半田高女教諭を歴任。なお妻・カタは結婚前の明治43年海鹿島にスケッチ旅行に来ていた竹久夢二と接する機会があり、「宵待草」のモデルになったという。 |
| ■玉置真吉(1885−1970)ダンス |
■太地喜和子(1942−1992)演劇 |
紀和町花井出身
和歌山師範卒業後、和歌山県内の小学校教員をしていたが大石誠之助に私淑していた関係で大逆事件後官憲の圧迫を受け九重小学校を退職、上京明治学院神学部に学びメッキ工場の経営に携わるかたわら、歌劇の翻訳や讃美歌、歌曲の紹介に努めまたダンスの輸入、指導に当たるようになった。そして昭和の初め東京飯田橋の舞踏場を日本のダンスの中心に仕上げ日本舞踏教師協会を組織してその初代会長に就任。戦時下昭和15(1940)年ダンス場は閉鎖されたが、戦後進駐軍来日とともにダンスが再び活性化するや、21(1946)年「社交ダンス必携」を出版、約37万部を売り上げたという。またその頃全国各地の炭鉱などを回りフォークダンスの普及のも努めた。 |
東京都出身
父・太地喜一は鵜殿太地氏の流れを汲む人で、新宮市生まれという。昭和35(1960)年、松蔭高校入学とともに東映ニューフェイスとなり、映画に出演。39年俳優座養成所に入ったが42年杉村春子に憧れ文学座入団。43(1968)年の初舞台「タンゴ」で大胆なまた華やかな演技で注目され以後舞台や映画、テレビに大活躍。49年、井上ひさし作「薮原検校」で紀伊国屋演劇賞、55年水上務作「苅の寺」で芸術選奨新人賞受賞。昭和60(1985)年、中上健次作、柳町光男監督の映画「火まつり」でも好演好評を博したが、伊豆で事故に遭い48歳で死去。 |
| ■大野典子(1920−)いけ花 |
■浜口熊嶽(1887−1942)病気治癒術 |
尾鷲市出身
本名・岩城隼子。雙葉高等女学校卒業後、在日外国人を主として生け花を教授。昭和29(1954)年、ブラジル・サンパウロ市の40年祭に生け花文化使節としてすでに100数ヵ所を訪問。30(1955)年国際生け花学院を創設、学院長となり、また国際生け花協会長もつとめる。サンパウロ美術館で50(1975)年国際生け花創立30周年記念展を開催しブラジル文化勲章南十字賞を受賞したほかシンガポールなど国際的な受賞(受章)も多い。著書「生け花」「花の語り」『花の旅」など多数。 |
紀伊長島町長島出身
幼名・熊蔵小学校を途中退校、綱引きなどをしていたが那智山で長年修行、祈祷術を身に付けてから、『人身自由術師』の名で明治、大正昭和にわたって種々の病気治療に当たった。インチキだという非難の声があがったり、無免許医業などのかどで度々検挙起訴されたりしたものの屈せず、大阪、東京をはじめ全国各地に事務所をおいて施術を続けた。その名は国内はもとより海外にも鳴り響き朝鮮、満州、ハワイ、アメリカ本土にも施術旅行(アメリカでは「セカンド・シャカ」などとあだなされたらしい)をし巨万の富を得たがその富は自身の豪邸や町のために惜しげもなく費やされたという。 |
| ■栗須七郎(1882−1950)同和運動 |
■西浦宇吉(1882−1970)労働運動 |
本宮町出身
15歳で小学校の代用教員となるが、同和地区出身者への世間の目は冷たく、一年で退職。上京して苦学、逓信省に入る。日露戦争に従軍し自らも負傷しながら他の負傷兵の後送のために活躍、金鵄勲章を受章。大正4(1915)年故郷で起こった差別事件に際し帰郷これを糾弾して関係者に誤りを認めさせ、反省させた。以来地区住民の開放のために全国を講演して回り大正11(1922)年全国水平社を結成させやがてその最高幹部となった。「水平の行者」として広くしられ同和運動、人間開放運動の先覚者として知られる。 |
那智勝浦町色川出身
色川高等小学校、和歌山師範簡易科卒業。下里、三里の小学校で教えた後大阪砲兵工廠、名古屋工廠に勤務。大正11(1922)年軍縮にともなう大量解雇をきっかけに労働運動の先頭に立ち、大正13(1924)年から昭和12(1937)年まで官業労働総同盟中央委員長を務めた。昭和2(1927)年の第10回ジュネーブ国際労働会議には労働代表鈴木文治とともにその顧問として参加。昭和29年から12(1937)年まで名古屋市議もつとめている。 |
| ■高川 格(1915−1986)囲碁 |
■佐村よね(1890− ?)飛行機操縦 |
田辺市出身
幼少時から碁を覚え得意としていたが上京し府立高津中学に学ぶ頃から本格的に棋士の道を歩み始めた。秀格と号し、本因坊戦では昭和27(1952)年の第7期から35(1960)年の第15期まで木谷、杉内、藤沢から強豪の挑戦を斥けつつ9連覇の偉業を達成。十段。昭和43(1968)年53歳で初の名人位に。平明で理論的な棋風で知られ入門者向けに出版されたその著「碁を始める人のために」はベストセラーだったという。
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串本町出身
旧姓・南地。明治39(1906)年両親とともに渡米、ロサンゼルス市へ。洋裁学校を卒業、洋裁店を開いていたが、たまたま飛行機大会を見物して興味を抱き、明治43(1910)年から同市のシラー飛行学校で、次いで佐村福槌が経営する飛行学校で学んだ(のちに佐村と結婚)。そして大正2(1913)年当時のアメリカでも珍しいまた日本人としては勿論初めての女性パイロットとなった(因に徳川好敏大尉による日本人初飛行は1910年)。ただしよねは、結婚後は飛行機に関心がなくなり、操縦桿を握ることはなかったらしい。大正12(1923)年日本に帰国、下関で関門高等洋裁学院を経営。これも日本では初めての公認の洋裁学校であったという。 |